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プルーストの墓

プルーストは1922年に死去し、パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたようです。

一度いってみたいなぁ。

プルーストはパリ郊外のオートゥィユにある母方の伯父の家で、医師の息子として生まれる。プルーストの生まれた時期は普仏戦争の終結した2ヵ月後で、パリ・コミューンの騒乱とその鎮圧、そしてフランス第3共和制の確立の只中であった。後に書かれる『失われた時を求めて』の多くの題材が、この第3共和制の誕生による、第二帝政期の貴族階級の没落に取材している。彼の母親ジャンヌ・ヴェイユは教養豊かなユダヤ人で、父親のアドリアン・プルーストは当時の高名な医師・疫学者であり、当時アジア・ヨーロッパで流行していたコレラの病因論や治療などで名高かった。父親はローマ・カトリック教徒だったので、彼はカトリック文化の元で育てられた。

9歳のときに彼は喘息の発作を起こし死にかけた。彼は病弱で、光と雑音に対し時々神経過敏になった。そのため、後にオートゥールの大叔父の家の印象と交じり合って架空の村コンブレーのモデルとなる、イリエの村でしばしば長期の休暇を過ごした。(現在この村は、プルーストの著作にちなんでイリエ=コンブレーと改称されている。)パリ大学で法律を学んだ。1889年から1890年にかけては健康が優れなかったがオルレアンで兵役を務める。青春期は社交界のサロンに出入りし、交遊を広げた。この時期のプルーストは、小説を書こうとして果たせず、スノッブ(俗物)そして審美家として名声を博していた。サロンでの経験や見聞が『失われた時を求めて』の重要なモチーフになった。

父親はマルセルの栄達に強い希望を持っており、一時期就職を試みたこともあったが、病身の故もあって断念したため、存命中の両親を悲しませた。もっとも、それを許容しうるだけの資産があった、とも言える。

20世紀に入ってプルーストの環境は激変した。まず1903年の2月に弟のロベールが結婚してアパルトマンを出た。そして同じ年に父親が死去し、1905年には最愛の母を亡くす。これによってプルーストは莫大な遺産(現在の額にしておよそ600万ドル、月収1万5千ドルに相当する)を相続した。この時期を通してプルーストの健康状態は悪化し続けていた。

その後も病弱であり、喘息と敏感な皮膚および胃のためにパリのアパートで過ごすことが多かった。特に『失われた時を求めて』の執筆を始めてからは部屋に閉じこもって書き続けた。彼は海岸の療養地、カブールへしばしば旅行し、それは架空の街バルベックの元となった。

プルーストは趣味のためならお金を惜しまない人物で、夜、自室に当時最高の弦楽四重奏団であるカペー弦楽四重奏団を呼びつけ、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲に一人で聴き入っていた、というエピソードも残っている。この当時、まだベートーヴェンの後期の室内楽の評価は決して高いものではなかったことからも、プルーストの審美眼の一端がうかがえる。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月09日 19:45に投稿されたエントリーのページです。

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